長崎暢子『ガンディー:反近代の実験』

   青年ガンディー(1869-1948)は、1888年英国に留学して弁護士(バリスター)の資格を取り、91年インドに帰国して、ボンベイで開業したが、余り成功しなかった。93年訴訟事件に関連して南アフリカに渡り、インド出稼ぎ労働者に対する差別と迫害に直面して、抗議・救援活動のために、思いがけず20年以上に亘ってそこに滞在した。

   1906年、8歳以上のインド人に指紋登録を義務づける「アジア人登録法案」が公表されると、彼はインド人の抗議集会を組織し、そのリーダーシップの下で、「たとえ法案が通過しても、それに従わない。そしてその不服従に対して課せられる罰は甘んじて受ける」ことを決議した。1907年、その法律が施行されたが、殆どのインド人は登録せず、政府は違反者の逮捕を決定した。ガンディーも逮捕されたが、続々とインド人が入獄してきて、ヨハネスブルグの刑務所はいっぱいになった。

   ここで当局は、インド人が自発的に登録すれば、「アジア人登録法」を撤廃するという妥協案を示した。ガンディーらはこれを受け容れ、自発的に登録した。ところが当局は約束を裏切った。そこで新たな抗議集会が組織され、2000人のインド人が登録証を焼却した。このことは世界の新聞に報道された。

   これがガンディー的抵抗運動―サティヤーグラハ[不服従運動]―の発端である。それは「悪法を犯し、犯したことを認め、刑に服する。しかし、その刑に服する人の多さ、論理の異常さによって、人々はその法が悪方であることを知る」という戦術である(p.51)。その背後にある法思想は、「良いものか悪いものかを問わずに、法ならば従わねばならぬというのは、当世風の考え方で、昔はそんなものはなかった。人間は神または良心のみをおそれるもので、法というのは必ずしも人間を拘束するものではないし、法がそもそもそんなことを要求してはいない。つまり法は『お前はこれこれのことをしなければならない』とはいわない。法はただ『もしお前がこれこれのことをしなかったら罰するぞ』というだけだ」というものである(p.106)。

   1932年、彼は不可触民の分離選挙に反対して、死に至るまでの断食を宣言した。「ガンディーの断食に呼応して、各地で寺院の門が不可触民に開放され、村の井戸や公道も不可触民に開放された。三日もたたないうちに、ガンディーは急激に衰弱し、四日目には医者は『重態』だと報じた。国中が熱に浮かれたようになった」。こうして政敵は屈服した(p.182)。

   欲望の主張ではなく、欲望の断念を信念の支えとすること、四公方の断念者を聖者として崇拝すること、これは古来のインド的伝統であるが、日本でも出家は諦観や自己犠牲の美学として、その伝統が受け継がれてきた。よかれ悪しかれ、その破壊を職業としてきたのが、明治以降の法律家であろう。(『法学セミナー』1996年7月号)

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