憲法の正統性

 正統性の概念

 正当性が「正しいこと」一般を意味するのに対して、「正統性」はもっと狭い概念である。それに相当する英語はlegitimacyで、ラテン語lex(法)の派生語であるから、元来は「合法性」(legality)を意味したが、現在では、カール・シュミットに『合法性と正統性』という著書があるように、両者は対立概念としても用いられる。

  語源史的に考察すると、legalitylegitimacyが分離した契機は、legitimacyが「嫡出」という家族法的意味をもったことにあるようである。特に君主制において、「嫡出子のみが王位継承権をもつ」という原則が支配し、正統な王とは王の嫡出子を意味した。非嫡出子が王位に就くことがあると、そのlegitimacyが問題とされた。正統性という訳語の「統」という字は、このような「血統」の意味を引き継いでいる。

 フランス革命以後、王朝的正統性が崩れ、新たに民主的正統性が登場する。民主的正統性の根源は民衆で、君主制において「王統」が祖先から子孫へと血統によって伝わったように、民主制においては正統性は民衆から諸機関へと選挙等によって伝えられる。例えば民衆の選挙によって選ばれた議会は民衆の正統性を承継し、議会の選挙によって選ばれた内閣は、議会の正統性を承継する、というように。

 しかし選挙によって選ばれた機関の任命によっても民主的正統性は承継される。例えば、最高裁判所の裁判官は、大統領や首相の任命によって正統性をもち、下級裁判所の裁判官もそのような正統性を持つ機関によって任命されることによって正統性を取得する。

 正統性と合法性

 正統性と合法性が一致している場合には体制は安定するが、両者が乖離すると、国内に対立がもたらされる。正統性に問題のある体制には不吉なことが起るという思想は、古くから存在し、神話や文学などに表現されている。

 古代ギリシャの悲劇『オイディプス王』において、非業の死を遂げた先王ライオスの死因が不明確なままになっている時、テーバイの町に疫病が流行し始め、実はその殺害者が現在の王オイディプスだということが判明する。オイディプスの体制の正統性に問題があるところから、神が疫病を流行らせたのだという。

  シェークスピア『ハムレット』において、先代のハムレット王が統治している間は体制は安定していたが、王が突然死に、弟のクローディアスが王位に就くと、国内に様々な異変が起る。結局弟が兄王を殺したことが判明し、関係者の全員が死滅するまで秩序は回復しない。

 このように、ある体制の正統性に瑕疵があると、それが合法性の殻を破って発現し、体制を滅ぼすことになる、という信仰は、各国の政治神話の中に多く見られる。中国の天命思想などもその例で、秦の始皇帝や王莽などは、覇者であって王者としての天命を享けていないから早く滅びたのだ、という。

 民主的正統性においては、選挙によって国民の信託を受けることで権力は正統性をもつことができる。まず全員が集まって、投票によって権力設立を合意し、以後信任投票を定期的に繰り返す体制においては、そのような体制の合法性は概して正統性と一致する。しかし信任投票と次の信任投票の間の期間が非常に長かったり、選挙が不公正であったりすると、権力の意思と国民意思、合法性と正統性の間に乖離が生ずる。このような場合には革命が正当化されるという思想がある。民主革命の理論である。

 非民主的に成立した政権が国民投票によって信任を確認されれば、事後的に民主的正統性を獲得する、という思想もある。ナポレオンやナポレオン三世は、このようにして正統性を取得しようとした。前の憲法の手続を無視して国民投票を行ない、それによって新体制を発足させることがあるが、これは民主的正統性を合法性に優先させるものである。

 しかしこのような国民投票が、クーデタ政権の信任投票という形で行なわれると、国民は現政権支持か無秩序かという選択を迫られ、無秩序よりはましだということで、やむを得ず政権を支持することになる可能性が強い。複数候補の間の選択と異なり、国民の積極的支持の証拠とはなり難い。

服従獲得能力

  民主制においては、治者と被治者が同一の国民であるから、国民意思による政治は、「被治者の合意による政治」と言い換えることができる。被治者の合意には、明示的で積極的な合意と、黙示的で消極的な承認とがある。権力の正統性の源泉を、被治者の黙示的・消極的な承認に求める思想は「承認説」とよばれる。

   承認説は、民意の承認を受けない政権は、天命を失い滅びるという孟子のような思想にも連なるが、独裁政権を、一応安定して国民が積極的に反抗しない状態を承認を得ている状態とみなすと、反民主的政権を正当化する議論となる。

 この承認説の脈絡から、正統性を「被治者の自発的服従を獲得する可能性」とする定義が生れてくる。例えば税金を払うとか、兵役に服するとか、権力によって課された、かならずしも楽しくない義務を履行する動機には、そうしなければ処罰されるという物理的制裁に対する恐怖による場合(非自発的服従)と、「正統な君主の命令だから」「我々が選んだ議会が決定した法律によるものだから」というような観念に基づく場合(自発的服従)とがある。後者のような服従を「正統性の観念に基づく服従」とよぶことができる。

 このような正統性の観念には、君主制的正統性や民主制的正統性以外にも色々なものがあり、政治的イデオロギーの数だけ正統性の観念があると言っても過言ではない。国家主義には国家主義的正統性があり、民族主義には民族主義的正統性がある。保守主義、伝統主義、社会主義、自由主義などはもとより、マルクス主義、レーニン主義、スターリン主義、毛沢東主義など、固有名詞つきの政治的イデオロギーにも、それに対応する正統性観念がある。かつては「レーニン全集何巻の何ページにこう書いてある」というようなことが、権力の正統性の根拠として持ち出された。

 合法性もまた正統性の根拠となり得る。即ち被服従者の間に「合法的であるものには服従すべきだ」という観念が支配権を有しているならば、合法的正統性というものが成立する。マクス・ウェーバーは、「合法的支配」を正統性の一類型に数えている。

 各権力は、宣伝や教育によってこれらの正統性観念を国民に植え付けようとする。それが成功すれば、体制は安定する。しかし国民の心服がないところで、宣伝や教育だけしても、安定は得られない。

日本憲法の正統性

 「憲法に定められたことだから」という理由で大多数の国民がそれに服従する場合、その憲法は正統性をもっている。ドイツのワイマール体制において、憲法に正統性を認める国民と認めない国民とが対立した。後者は、例えば、ワイマール憲法は「非民族的」だという理由で服従を拒否した。即ち民族主義的正統性の観念から憲法の正統性を否認したのである。  

   日本憲法に関していえば、明治憲法は、「国体」と「政体」という二つの正統性原理の妥協によって成立していた。「国体」とは、明治維新を担った人々の歴史解釈に基づく歴史的正統性であり、それによれば、神が日本国家の支配者を「万世一系の天皇」に定めたという『日本書紀』(八世紀初めに書かれた歴史書)の記述に従って、神の子孫である歴代の天皇の命令に国民は服従すべきであるという観念である。「政体」は民選議会を通じての国民の政治参与で、これによって帝国議会が開かれた。この二つの正統性観念の何れをどの程度重視すべきかをめぐって憲法解釈も対立した。

  占領下で制定された日本国憲法の正統性に関しては、色々問題があり、それがいかなる正統性観念によって成立しているかについても議論がある。

  まず合法的正統性という面から考察すると、旧憲法の合法的改正による正統性ということが考えられる。しかしそれに対し、日本国憲法は、旧憲法の改正手続に従って成立したが、君主主権憲法から国民主権憲法に改正することは、憲法改正権の限界を超えているのではないか、という議論がある。

 それにも拘らず新憲法制定の合法性を承認しようとする立場は、三つに分かれる。

 第一は旧憲法の「国体」に基づく天皇の決断(ポツダム宣言の受諾、新憲法の裁可)によって合法性が確保されたというもので(旧憲法において天皇は「非常大権」を有していて、三十一条の条文は、非常事態における人権停止権しか定めていないが、「天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ」という書き方は、包括的な権限の存在を前提しているという)、第二は旧憲法の「政体」に基づく民選議会の議決により合法性が確保されたというものである(即ち旧憲法の実体も国民の政治参与にあったので、両憲法の間に原理的断絶はないという)。

 しかしこれらの説は、占領下の当時日本国民、日本議会、天皇が自由な憲法制定権を有していたかのような事実に反する前提に依拠している。そこで第三の説は、国際法的合法性を論拠とし、ポツダム宣言に基づく連合国の日本統治権が日本国憲法の法的根拠であるとする。これらの説による新憲法の合法性の主張を否認するところから「憲法無効論」が登場する。

  以上の合法的正統性論に対し、超法的正統性をめぐる議論もある。日本国憲法の批判者たちは、歴史的正統性の欠如、国民(民族)自決原理への背反などを根拠としてその正統性を批判するのに対し、擁護者たちは民主的正統性の普遍妥当性、更に第二次大戦後の世界における世界史的正統性などを根拠として、新憲法の正統性を論ずる。

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