シュミット研究回顧

 

私がシュミットの名前を聞いたのは、大学三年生の時のことで、政治学の講義で堀豊彦先生が、「同じナチ学者でも、スメントやケルロイターやなんかに比べて、シュミットは面白いよ」とか仰ったのを聴いたのが最初だと思う(スメントはファシスト・シンパではあったが、「ナチ学者」ではない)。しかし何といっても、私の関心をシュミットに惹きつけたのは、鵜飼信成先生が国法学の講義で、シュミット『リヴァイアサン』の紹介をされ、「特に右手に剣(世俗的権力手段)、左手に笏(イデオロギー)をもって平和な都市を護る」というホッブズの挿絵の解説をされたのを聴いた時である。

   その頃私は日暮里に住んでいて、よく上野図書館に行った。まだ蔵書が国会図書館に吸収される前で、珍しい本が色々あった中で、まさしく鵜飼先生からお聞きしたDer Leviathan in der Staatslehre des Thomas Hobbesの実物があり、(二七頁に)その挿絵もあった。教養課程で二年間学んだだけのドイツ語力だから、分かりはしなかったが、理屈ぬきの魅力を感じ、研究者になった後、ほどなく読んでみることとなった。

   もっとも最初に読んだシュミットの著作は、身分不相応にも、Verfassungslehreで、ケルゼンのAllgemeine Staatslehre、イェリネックの同じ題名の本を読み終えた後、研究室一年目(一九六一年)の秋だったと思う。ちょうどその頃、学校の前の洋書屋でそれを見つけ、線を引き引き読んだのである。

   国家論という同じ主題を論じていながら、ケルゼンとシュミットが余りにも違うので、自分なりの視点を築いて両者を関連づけてみたいと感じたが、どこからどう手をつけていいかよく分からなかった。しかしやがて、ケルゼンの論文「神と国家」とシュミットの『政治神学』を読み比べたときに、それまで全く未知であった神学という世界が、両者の関連づけの鍵を提供しているように思えて、付け刃で神学の書物を少しづつ読み始めた。ルター派の教義学書Hans Martensen, Christian Dogmaticsという本を古本屋で見つけたり、学部の図書館からFranz Diekamp, Katholische Dogmatikという本を借りてきて、机に並べたりしたのがその頃である。

   ケルゼンの「規範的思惟」、人格・意思・規範的結合(Zurechnung)などの概念も、最初はなかなか内在的に理解できず難渋していたが、「神と国家」を読むことによって割合にすっきり理解できた気がし、日本になくて西洋にある神学というものの思考様式を理解することによって、未知であった西洋思想の一脈絡に接近する鍵がつかめたような気もした。基本的に神学のドグマを知的遊戯として扱っているケルゼンの分析は、基本が一応飲み込めると、よく理解できるのである。

   ところがシュミットの方は、よくわからない。「非常時の決断」とか、「議会制の病理」とか、「自由主義の無力」とか、「憲法制定権力と憲法改正権力」とか、「敵味方関係」とか、有名な部分はある程度理解できるのだが、何だか分からないところが常に残り、「それを理解するためにもっと色々なものを読んでみよう」という訳でだんだん病みつきになる。ワンセンテンスが短くて、歯切れのいい文章だから、語学の勉強のためにも訳してみよう、ということで、友人たちといくつかの翻訳もした。

   「昔はものを思はざりけり」という歌があるが、顧みれば一九六〇・七〇年代のシュミット研究は牧歌的なものだった。(本質的には思想の本籍はケルゼンの側にあり、シュミットは本質的には「他者」だと感じている)私なども、分からないところはほったらかして、面白いところだけ拾って紹介したりすると、もういっぱし「シュミット専門家」みたいに扱われて、「解説」などを書かされた。

   だんだんと、シュミットの分からないところが、彼のカトリック的背景にあるらしいと感じられてきた。しかも久保正幡先生やヨンパルト先生のトミスト流カトリックとは随分違うので、カトリックのどういう流派と結びついているのか、疑問に思ったが、なかなか接近方法が見つからない。それでまず『ローマカトリックと政治形態』『政治神学II』など、関係のありそうな書物を読んでみたが、依然分からない。

   それで友人たちとその翻訳を出版したりしたのだが、しかしだんだん「この領域は『他者』の聖域で、私などが立ち入るべきではないのではないか」と感じ始め、その頃米国に滞在する機会が与えられて、米国の対日占領政策などに集中することになり、シュミット研究から落伍した。一九八五年にシュミットが死去した際、新聞と雑誌に小文を寄稿した時も、半ば想い出を綴るような気分であった。

一九九〇年、和仁陽氏の『教会・公法学・国家』が出版された時、広い文献蒐集、深い読みに感嘆するとともに、シュミットの観念世界の「本籍」が突き止められていて、ちょうど私が不思議に感じていたRepräsentationFormの概念を中心に前期シュミット思想が再構成されているのを見て、文字通り唸った。それ以後は、「シュミット研究者OB」として、時々関連の小文を書かされることもあったが、主観的にも客観的にも落伍者という位置づけである。続く世代の研究者によるシュミット研究の書物を頂戴しても、なかなか手に取る気にもなれず、お礼も差し上げずにいることが多くなった。

現在、かつての訳の再刊の要望があり、「訳者あとがき」のようなものを書かざるを得ないかと思い、ボツボツとその後の研究書に眼を通してみて、内外の研究の隆盛に驚嘆している。伝記研究も、修道院を追い出された経緯やら、破談になった婚約やら、結婚詐欺に遭って女房に逃げられ、再婚して教会から破門された事実やら、微に入り細を穿ってきており、カトリックの古賀敬太氏、プロテスタントの佐野誠氏による、シュミットの神学的背景に対する研究の集約度など、驚くことばかりである。

 

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